まじめさ

先生に学ぶことのひとつは、まじめさということを外部から見ることだ。
絵や文章を書くとき、ついまじめになってしまう。適当さは罪悪とさえ感じられ排除されなければならない。それは、どこかでそのように学んできたのだろう。たとえば、父親は、私が父親に冗談を言うと不機嫌になったのだし、また学校の教師たちからも常に真面目さを強要されてきた。真面目にやっていれば、とりあえずの安心が得られた。私は自分が真面目ぶっていることに気がつくことさえなかった。
それに気づかせてくれたのが先生だと思っている。わたしが真面目に話しているとすぐにちゃかして、それを知らせてくれると思う。
真面目さというのは、何かをごまかすものであるのかもしれない。
原始的な部族の多神教の神話は、とても適当でユーモアがあるのに対し、ユダヤ教という一神教が生まれてから、天地創造神話にしても妙に真面目なものになったという。原始的な部族は、世界はもともと不完全なものとして出来上がっており、それを創造した知性もまた不完全なものであったはずだ、という認識があるのだという。

「そもそも人間の知性も思考も、自然の全体性の中から生まれたものとして、自然と一体なのですから、知性や思考を根拠づけているいかなる「超越性」もない、と考えるのが、対称性社会に特有の思考法でしょう。
知性は自分の限界まで進んでいって、そこで「超越性」に触れ、それについて思考することはできても、自分自身を根拠づけているのが、その「超越性」だとは考えなかったでしょう。そのために、「知」は権力になることがありませんでした。」(『神の発明』中沢新一著)

まじめさが何か押しつけがましい感じがするのは、権力的だからなのだろうか。