【小説】あかるいみらい(4)「東京は緑が多い」

「この道かなあ。」といいながら、母親は路地を歩いていった。未来はその後に続きながら、緊張のあまりに来たことを後悔していた。母親が立ち止まり、ああ、ここだわ、と言った。古い木造の一軒家の表札を見ると、今は変わっているがかつてそうだった「木霊」という苗字が記されていた。「そうそう、ここが居間で、そこに物干しがあって、全然変わってないわ。」と母親が言う。未来は、確かに私はここで暮らしていたのに、すこしも覚えていない、と思った。自分の知らない自分という存在。その知らない自分と、その自分が含まれている世界に対する不思議な懐かしさと不安を未来は感じた。家の前には、自転車が一台とまっていた。生活の匂いと、それに伴うなまなましい現実感が漂っていた。三味線と長唄が聞こえて来る。「亜紀ちゃんだわ、亜紀ちゃんは三味線をずっと習っていたのよ。未来ちゃんのお父さんのお姉さん、つまり伯母にあたる人だわね。」と母親が言い、「ちょっと入ってみようか」と言った。未来は驚いて、やめようよ、と言って母親を引っ張るようにしてその路地から外へ出た。20年も前に離縁した夫の実家を何気なく訪問できる母親の神経が未来には信じられない。私だったら緊張のあまりに気絶する、と思う。
「なつかしいわねえ。」と辺りを見回す母親に連れられて、すぐ近くにある世田谷観音へ来た。小さな丘の上の、観音様である。丘はちょっとした森になっている。森は蒼い陰で周囲の住宅街を覆っているようだった。この蒼暗い空気を、知っているような気がした。
子供の頃、東京を離れた母親に連れられて田舎で暮らしていたが、夏休みには毎年東京の母の実家へ遊びに行っていた。東京に来るたびに、東京は都会だけど緑が多いということが、子供心に強く印象に残るのだった。なぜその事が印象に残ったのだろうか。
点と点が繋がり、図形を描こうとしている。だがまだ点が足りない。形は見えてこない。そんな感じがした。