訪問看護をしている妹が、急に電話で仕事に呼び出され、いつもママにべったりの甥が、私と二人で公園にいることになった。
おかあしゃん、どこ?と言って、泣きそうになったけれど、涙はこぼさなかった。水鉄砲と水玉風船を手榴弾代わりにつかって戦争ごっこをしている小学生の女の子たちが賑やかにしていたから、甥の興味をそちらにうまくそらした。
水飲み場で水玉風船に水を入れて膨らましている女の子が、甥に水色の風船玉をひとつくれて、かわいい!私も子供が欲しいわ、と言った。
それから、甥は滑り台や、ブランコ、のまわりにある柵で遊び始めた。
夢中になっているときは生き生きしているが、時々ふとぼんやりとするのが、小さいころの妹にそっくりだった。


(この写真がどうしても縦にならない。クリックしたら縦の写真が見られます。と思ったけど、やっぱりできない。)

高台にある公園で。
私が、いい景色だから風景見てくるね、とフェンスの方へひとりで行くと、ママのそばにいた甥が、とことことこ、と駆けてきて、フェンスにつかまった。

【詩_20120224】

鳥の形の窓の向こうに
冷たい雨を含んだ雲が
垂れ籠める空

とおくに
黒点のように
鳥が数羽舞っている

ねじが壊れたオルゴールの
メロディーを忘れた曲が鳴っている
顔がない写真のように

首吊り死体がかすかに揺れている
風景のひとつとして
誰もいない
何とも繋がらない
不動な

どこかで
虹のように
風が鳴る音

【断片_20120305】

今日は、仕事で、というか働いている福祉施設の日帰り旅行の付き添いで、横浜にあるカップヌードルミュージアムへ行ってきた。そこでは、自分でカップヌードルが作れる。カップに絵を描き、スープと具を自分の好みに組み合わせることができる。私のヌードルの調合は秘密です。

ささやかなことだけど、わりと楽しい。

ところで、この頃、詩も絵も描けなかったのだが、なぜだか。でもなんとなく、がんばっていこうかなと思い、今日も詩をかこうとしていたが、心の中ばかりに目をむけているから、といえるのか、とにかく何も浮かばなかった。それで、横浜の波止場の風景に、何か感じたことを思い出したら、うまいとはいえないけどとりあえず何か書くことはできた。心のつかえがすこしとれた。

波止場に

菫色の空気が充ち

松林は
空へ絶唱している
ゆれるアーチ

船は
歓びに震え
うずくまっている

遠くの
明滅する灯台
音を吸い取る
めまいがする

何かがつぶやかれる
いつも解読できないが

菫色の空気に
身を浸す

私は存在しているだろうか

【小説】あかるいみらい(4)「東京は緑が多い」

「この道かなあ。」といいながら、母親は路地を歩いていった。未来はその後に続きながら、緊張のあまりに来たことを後悔していた。母親が立ち止まり、ああ、ここだわ、と言った。古い木造の一軒家の表札を見ると、今は変わっているがかつてそうだった「木霊」という苗字が記されていた。「そうそう、ここが居間で、そこに物干しがあって、全然変わってないわ。」と母親が言う。未来は、確かに私はここで暮らしていたのに、すこしも覚えていない、と思った。自分の知らない自分という存在。その知らない自分と、その自分が含まれている世界に対する不思議な懐かしさと不安を未来は感じた。家の前には、自転車が一台とまっていた。生活の匂いと、それに伴うなまなましい現実感が漂っていた。三味線と長唄が聞こえて来る。「亜紀ちゃんだわ、亜紀ちゃんは三味線をずっと習っていたのよ。未来ちゃんのお父さんのお姉さん、つまり伯母にあたる人だわね。」と母親が言い、「ちょっと入ってみようか」と言った。未来は驚いて、やめようよ、と言って母親を引っ張るようにしてその路地から外へ出た。20年も前に離縁した夫の実家を何気なく訪問できる母親の神経が未来には信じられない。私だったら緊張のあまりに気絶する、と思う。
「なつかしいわねえ。」と辺りを見回す母親に連れられて、すぐ近くにある世田谷観音へ来た。小さな丘の上の、観音様である。丘はちょっとした森になっている。森は蒼い陰で周囲の住宅街を覆っているようだった。この蒼暗い空気を、知っているような気がした。
子供の頃、東京を離れた母親に連れられて田舎で暮らしていたが、夏休みには毎年東京の母の実家へ遊びに行っていた。東京に来るたびに、東京は都会だけど緑が多いということが、子供心に強く印象に残るのだった。なぜその事が印象に残ったのだろうか。
点と点が繋がり、図形を描こうとしている。だがまだ点が足りない。形は見えてこない。そんな感じがした。

【小説】あかるいみらい(3)「青い壁のカフェ」

バスにのって、首都高の下の影になった道路を行く。人でいっぱいなのは渋谷の街の中だけで、バスですこし離れると、急に人も少なくなり、物音も小さくなる。バスの窓から見る風景は、首都高やお互いのビルの影になっているので蒼暗く、まるで水族館の様だ。急に水深が深くなり、水圧が高くなった感じがする。
真昼の都バスを、そんな風に感じるのはおかしい。一方では、バスの音や、昼の白い光が不意に突き刺さるように未来を現実に引き戻す。
それでも、ともすると四角く切り取られたバスの窓の向こうには、深い水がたたえられ、魚影がときどき姿を見せた。未来は暗い水族館の中に、物思いに沈んだ。

やがて首都高の下の道を三宿の交差点で左に曲がった。母親が、外の風景に注意をしはじめ、未来は緊張しはじめた。自分の生まれたという家をさがすだけで緊張している自分の気の弱さに自己嫌悪を感じる。腹を立ててみる。なぜわざわざ自分の生まれた家なんて探さなきゃならないんだ。なぜ、万引きでもしているように、びくびくしなければならないんだろう。

母親が、これかもしれない、というバス停の名前がアナウンスされ、ブザーを押す。

「たしか、このあたりだったとおもうのよ。」
バスを降りて、母親とふたりで、初めて来た町を歩く。いや、初めてではないはずだった。それでも、バスを降りると、現実に引き戻されたように乾いた日の光の中に、知らない町があった。未来は、母親が自分の、生まれた家を探したい、などという、センチメンタルな願いを聞いてくれて、この町まで来てくれたことが嬉しい。それは、生まれた家を探すというこの行動を共有することが、母と自分だけの特別な関係を回復できるような気がしたからかもしれない。母親がこの町を出たころは、母親と未来はふたりきりだった、と思った。母親は夫と夫の家族とこの町から逃げ出し、家族のいる東京を出て、奈良へ移り住んだのだった。そして今の夫と出会うまでの間は、母親と未来はふたりきりで生きていた、と未来は思った。そのころの、おぼろげな、もう存在しない幻のような感情が、よみがえった。だが、それが幻でしかないことが悲しい。生まれた家など見つからなくても、母親とこの町に来られたことが嬉しかった。未来はとなりを歩いている母親を見た。母親は、きょろきょろと、あたりを探っている。
しばらく通りを歩いていると、見覚えのある建物が見えた。

カチッとスイッチが入る音が聞こえた。

映画がふたたび姿を現したのだ。現れたのは、100回繰り返し見たあの映画の中に出てきた、青い壁のカフェだった。ビルには、「下馬パークハウス」という文字が刻まれている。このカフェが出てくる場面は、映画の中では小雨が降っていた。カフェの向かいにある世田谷公園の緑が雨に濡れ、風に揺れていた。今は太陽が真上にある。雨と晴れ、二つの風景が重なり合う。現実というのは、こんなふうに、何枚ものフィルムが重なったものなのかもしれない、と思う。

「たしかこっちだったわ。」母親は、通りから細い路地へ入っていく。未来は母親についていった。生まれた家は、そのカフェから通りを一本入った、5分も歩かないすぐ近い場所にあった。

【小説】あかるいみらい(2)「馬という字のつく町」

「馬…、何だったかしらねえ、たしか、馬という字がついていたわよ」

わたしが生まれた場所ってどこだったの?と未来は祖母にきいた。

未来の父母は、未来が2歳の時に離婚している。母親は未来をつれて、その家を出たのだった。
未来の母親も、祖母も、その住所をおぼえていない。
そんなものなのだ、と未来は思う、それでいい。私の生まれた場所を身内は誰も知らないし、今となっては、自分以外の誰も興味がない。

だから、探すのは、自分しかいないのだ。

でも探していいのだろうか、と思う。
誰に責められるのではないのに、そのはずなのに、誰も笑うはずもないのに。
笑われている気がする。
いまさら過去のことを知って、何の意味があるのか、と笑っている。

誰が笑っているんだろう。その正体を見たい。

誰のものなのかわからないざわめきの中に、ひとりが立ち上がる気配があった。
それは、ただひとりの意思をもつ存在のようだった。
意味がなくてもなしとげられなければならない事柄というものがあることを、未来は知らないが、その存在は知っている。
その存在に、未来はあやつられる。

映画『アカルイミライ』の中に出てくる青いカフェの場面を見ているときに、一瞬、馬、という文字が目に入った。
リピートして何度も見直した。離婚したために別れて暮らしていた父子がカフェで再び会う場面だ。それは青い建物のオープンカフェだった。
カフェのあるビルの名前が一瞬、画面を横切る。そこで一時停止ボタンを押すが、なかなか思うところで止まってくれない。何度目かにようやく乱れた静止画面の中に、かろうじて、読むことができた。

「下馬パークハウス」

母親も、未来を生んだ時に住んでいた住所を忘れていたが、渋谷駅からバスに乗って帰ったことは覚えていた。

未来は東京の地図を広げた。
調べてみると、馬のつく地名は東京に52箇所あった。
渋谷に近い馬のつく地名には、上馬、下馬がある。

やがて、未来の戸籍とともに母親から手紙が届いた。
手紙には、住んでいた場所はたしか、下馬だった、と書いてあった。

未来は、一週間後に上京してくる母親と下馬に行く約束をした。

未来は渋谷のバスターミナルで母親と待ち合わせた。

春の浅い3月の初め頃だった。
渋谷は若者の街と、世間で言われているけれど、新しいものがあるばかりではない。
未来の生まれた頃、あるいはまだ生まれていない頃から、さらには江戸時代から縄文時代、それからさらには地球が出来たときから、そこにあるものが土台として大きくあり、その上を、その時々に新しいものが、うつろい、消えていく。新しいものというキラキラして美しい亡霊が、動きようのない大地の上をうつろっていくような、そんな気がした。
大昔、渋谷には小川が流れていた、と聞いたことがある。『春の小川』という童謡の素材となったのは、渋谷だったのだと聞いたことがあった。

正午のバスターミナルは、その日最も高いところからの日の光に照らされていた。ここが、未来がまだ下馬に住んでいた時間のバスターミナルであっても、おかしくない、という既視感を未来は感じた。今、ここに、若い母親が、夫の酒乱と暴力に悩みながら、赤ん坊の自分をおぶって、バスに乗って、渋谷へ夕食の買い物に来てもおかしくない気がした。今にも目の前のバスから母親と自分が降りてきそうな気がする。そのことを思うと、未来は悲しいような、それでいて喜びのような、アンビバレンツな感情におそわれた。赤ん坊の私は重かっただろうか。
なぜ、今さら、実の父親のことを知りたいと思ったのだろう。

歩道橋の上に、ずっと動かない人影がある。中年の男のようだが、影になっていて顔も服装もよくわからない。それが実の父親であるように感じた。未来はそれまでも、いろんな場所で、そんな人影を見るとそれが父親ではないか、と思うことがあった。本当にそうだと思っている訳ではない。ただ、そう思うと、甘い気分になった。それと同時に、知っている世界と知らない世界の境界に立っているような、自由であると同時に不安な気分になった。犯罪を犯して逃げている時は、こんな気がするのかな、と未来は思った。

母親がやってきた。
田舎からわざわざ、昔住んでいた家を探すために東京へ出てきてくれたのだった。

未来が、実の父親の事を今になって知りたいと言ったときに、母親がけげんそうな顔をしたことを忘れなかった。あるいは、母親がけげんそうな顔をした、と思ったのは、未来の思い込みなのかもしれなかった。
ただ、けげんそうな顔をされたことが、心外であり、また不思議な気がした。
だが、母親にとっては、かつての夫であるとはいえ、血のつながりがない他人であり、血がつながっているのは自分しかいないので、母親が二度と、未来の父親のことを思い出さなかったとしても、自然であるといえるのかもしれなかった。
自然とは、そういうものなのだろう。それが不思議だった。自然は不思議だ、と思った。
血のつながり、というもの、あるいは、父親へのこだわり、というものこそ、自然からはずれた人間特有の病のようなものであるのかもしれない。
病であってもなんでも、未来は、実の父親を知りたいと思った。確固とした意志を持つことがあまりなかった未来の中に生まれてきたひとつの意志だったのだった。

すこし迷ったあげくに、下馬を通るバスを待つ列に未来と母親は並んだ。
これから、バスに乗って、自分の生まれた家を探しにいくのだ。